みなさんの心に残る駅・想い出に残る駅

駅名に関するコメントはご本人から寄せられたものを掲載させていただいていますが、ご本人のコメントがなかった駅の一部(道内駅)に関して事務局からコメントを書かせていただきましたのでご了承下さい。

なおそのコメントは斜体字で表記させていただきます。

氏名における敬称・呼称等は全て省略させていただいております。

駅 名 氏 名 所 属
小幌駅(室蘭本線) 青木由直 パノ鉄本舗 代表 ・ 北大名誉教授
日本に秘境駅と呼ばれる駅が数多く存在しています。
その多くが北海道にあり、そして究極の秘境駅が北海道に存在します。駅への陸路がないため基本的には列車に乗って行くしか到達できない駅となっています。以前は待合室もあり、そこに謎の住人がいた(?)時代があり、鉄道ファンは小幌太郎さんと呼んでいました。ある日住人が急病となり偶然訪れた釣り人に発見され、その救出劇はテレビ中継されました。住人はその後亡くなり待合室も撤去となりました。この駅の訪問者は鉄道ファンと釣り人がほとんどです。
石倉駅(函館本線) M.S. パノ鉄本舗 顧問
「印象深い駅名」を併記する趣向については心から賛同いたしますし、さすが「鉄ちゃん」たちはすごいな、と感心しております。特に「浜田浦」を揚げた福本さんの「孤高の魂」(と、勝手に解釈しましたが)に思いをいたすとき、心にこみあげるものがあります。そこで、小生はどの駅にしようか、と悩みに悩みましたねぇ。シベリア鉄道の駅、あるいは新聞記者人生を始めたときに降り立った室蘭駅、米国在住中のニューヨーク・セントラル駅などを駆け巡ったあげく、選んだのは函館本線・石倉駅(森町)です。浜田浦に匹敵する「渋さ」でございましょう。
浜田浦駅(日高本線) 福本 義隆 パノ鉄本舗 事務局長
何も無い殺風景な原野の中にポツンと廃屋のようなものが見えます???
駅なのでしょうか???
駅名標があるのだから駅なのでしょうけれども・・・
見た瞬間、悲惨だなぁと思いました。
次に悲壮、と云う言葉が浮かびました。
その次に ノラ駅と云う立場をおもんばかりました。
この建物が駅と判断するのは、常識を有した健全な社会人には無理なのではないでしょうか・・・
妹背牛駅(函館本線) H.K.  
印象に残った駅はと聞かれますと、直ぐには思い浮かびません。
中学1年まで、雨竜郡妹背牛町で生まれ育ち、その後は高校まで札幌に越境で下宿しました。
毎年、母の実家の旭川に正月とお盆に蒸気機関車で通いました。
また札幌に出てからは札幌と妹背牛を2ヶ月に1回は通いました。
母が泣いて見送ってくれた妹背牛の駅でしょうか。
大社駅(大社線) WADAC パノ鉄本舗 顧問
 
マナグア駅(ニカラグア) M.S.  
卒業旅行の1993年3月、ニカラグアのレオンから首都マナグアを結ぶレールバスに乗車しました。終点は一国の首都であるはずなのに満足な駅舎もなく、しかも駅前にはバラックが「点在」していました。バラックが無秩序に密集しているなら首都のパワーも感じられるのですが、屋根と壁だけなんとか作ったような、5トンコンテナほどの大きさの建物が規則正しく点在する奇妙な光景でした。マナグアは1972年、巨大地震に襲われ、建物の90%が倒壊したそうです。20年余りをすぎたその当時でもなお、その被害から立ち直っていないことを如実にうかがわせる光景でした。ウィキペディアによると、同駅を走る鉄道は1993年12月をもって廃止されたそうです。  
女満別駅(石北本線) K.T. パノ鉄本舗 相談役
私の思い出の駅...ということで一言書かせていただきます。

私の思い出の駅と言われてまず最初に思い出すのが、ふる里にある女満別駅です。
特に高校3年間は、女満別駅と網走駅を通学していました。
当時はまだ一部蒸気機関車が運行していて、夏になると出入り口のドアは開けっ放し状態で、トンネルに入ると列車の煙で目にしみた記憶があります。

上厚内駅(根室本線) 本久 公洋 北海道鉄道駅大図鑑 ・ 北海道の鉄道廃線跡 著者
全道の駅を取材で経巡ってきた私にとって「思い出の駅」は、まだ北海道にいくつか 残存している北海道代表型駅舎と自分なりに呼んでいる、路線の開通時からそれほど変わらない姿の現役の木造駅舎でありますが、その中で強いて挙げるとすれば、根室本線の「上厚内駅」です。「思い出の駅」・・・駅ってみんなにはどのように映っているのだろうか。学生たちが朝夕に群れ集い、元気な声が狭い待合に響く大きな風呂敷を背負った荷売りのおばさんや話し好きのおばさんが、負けじと喋る駅は地域のコミュニケーションの場。時が遷ろい時代が変わっても、何も変わらずに建っている。都会の喧騒の中で思う望郷の念にはいつも最初に駅が出てくる。夢の中に蘇る小さな駅の思い出は、ささくれ立った外壁と裸電球のほのかな灯り。希望に胸を膨らませた出発のとき、失望で打ちひしがれた帰郷のとき、私がプラットホームに佇んでいる。街から人々が去り、無人の駅は何も語ってくれないが、いつも「いってらっしゃい」と見送り、「お帰りなさい」と出迎えてくれる。
たとえ駅員さんがいなくても、「ただいま」と声を掛けたくなるそんな駅が私は愛しい。
 
幸福駅(旧 広尾線) 林 克弘 パノ鉄本舗 相談役
1973年3月、広尾線幸福駅はNHKテレビ紀行番組で紹介され空前の大ブームとなりました。この年の4月、私は北見市にある北見工業大学に入学しました。7月の大学祭模擬店で喫茶店を出店することになったのですが、来場者の誘い水として「愛国駅→幸福駅」の切符を抽選でプレゼントすることにしました。同級生に更別村出身がいたので帰郷した際に切符を購入して来てもらいました。模擬店の喫茶店はお陰様で大繁盛となりました。私が実際に幸福駅を訪れたのはそれから7年後の1980年8月の事です。現在の女房と付き合っていた時代、この駅を訪問したのです。この時既に婚約していたので「幸せ祈願」と言った感じの訪問だったように思います。
しかし1987年2月、広尾線は廃止となりバス転換されました。
現在「交通公園」となっており、今でも全国から多くの方が訪れる観光スポットになっています。幸福駅近くには数年前高規格道路のICができました。この高規格道路は道東自動車道と直結しており、札幌や新千歳空港方面から車での訪問する際大変便利になりました。この駅訪問後の11月、私たちは結婚しその後32年と3ヶ月、離婚することもなく今日までこられたのはこの幸福駅の御利益があったからかもしれません(笑)
北舟岡駅(室蘭本線) S.N.  
1982年8月、当時の北海道国鉄全線を、私は2週間かけて乗りつぶしました。当時の路線は北海道中に張り巡らされ、それこそ運行本数の少ない路線同士の接続に四苦八苦したものです。
約30年の月日が流れ、私にとって北海道は「トワイライトエクスプレスで行くもの」と決めています。もちろん、乗るだけでなく写真撮影もするのですが、大好きな撮影ポイントが北舟岡駅なのです。ホームから撮影するも良し。駅から少し離れた踏切から撮影するも良し。天気はもちろんのこと、濃霧でも良い雰囲気が出ます。いつのまにか、天気ごとに最高の構図を考えて撮影することが一つの楽しみになっていました。 私は鉄道旅の魅力の一つに「訪れるたびに沿線の表情が変わること」だと思っています。訪れるたびに様々な表情で、時には優しく、時には厳しく迎えてくれる・・・。北舟岡駅は私にそう接してくれているような気がしてなりません。
ハルビン駅(哈爾濱火車站) K.T.  
私が26歳来日した時にはじめて飛行機を乗りましたが、それまでの中国は汽車が主な交通手段でした。上海の大学に通学するために42時間も普通座席の列車に乗り、かなりの思い出になりました。
因みにこのハルビン駅は今でも年間乗客数が2500万人に上ります。昔と変わりませんが、お正月等の季節になるとその混雑振りが想像を超えます。
 
浜田山駅(京王井の頭線) K.S.  
わが心の駅は・・・京王井の頭線 「浜田山駅」です。
実家最寄りの駅。小学校から16年間通学で使用。特に小学2年から5年までは通学列車の切ない思い出が・・・。
 
雑餉隈駅(ざっしょのくまえき)(西鉄天神大牟田線) T.S.  
「くま(熊)なら北海道で聞きなれていますけど、まさか九州にくま(隈)の名前がつく駅があるとは!一度聞いたら絶対忘れない駅名です。」
朱鞠内駅(旧 深名線) E.N.  
深川と名寄駅を結んでいた深名線。深川と名寄間の直通運転列車があった時代もありましたが、往事は全てここ朱鞠内駅が起終着駅でした。今は一部の鉄路と駅名標があり駅があった記憶を残すにとどまっています。
計呂地駅(けろちえき)(旧 湧網線) れなっこ  
計呂地!この地名を知ったのは20数年前職場の上司の出身地でした。ケロチ?聞いたときは何だか衝撃的だったのとおっかしかったのが交錯しました。ケロチ???何回も聞き返したものでした。
その衝撃にかられどうしても計呂地駅を訪ねてみたくなりました。
廃線になった後でしたが駅に行ってみました。夕日がとても綺麗でSLが今にも走り出しそうな光景でした。廃線の最後の年は1日の乗降客も32人となったそうです。今は『計呂地交通公園』となって旧計呂地駅をそのまま保存したそうです。このように『公園』となって蘇った駅舎はしあわせではないでしょうか?
留萌駅(留萌本線) I.O.  
私の生まれた地です.小学校2年生まで住んでいました。父が国鉄マンだったため,駅近くの官舎に住み,幼稚園にはずいぶんと新しい駅舎を見ながら,通った覚えがあります。ウィキペディアによるとちょうど昭和42年に駅舎の改築が行われたとあるので,その直後の記憶が残っているのかもしれません。実際には駅舎の記憶よりも、駅周辺の引き込み線などの線路脇で遊んだ記憶の方が強いのは、ずいぶんと大らかな時代だったからでしょうか。鉄道と聞いただけで枕木にしみ込んだコールタールのにおいがよみがえるのは当時の記憶だと思います 
糸井駅(室蘭本線) A.M.  
小学生だった頃によく遊んだ駅。冬空の元の糸井駅は芥川龍之介のトロッコのイメージと重なります。
バーデンバーデン駅(ドイツ) ロンママ  
印象に残る駅名は、ドイツのバーデンバーデンです。何かの映画で聞き覚えが。単に響きからです。  
下白滝駅(石北本線) H.I.  
かつて白滝村(現、遠軽町)には5つの駅がありました。奥白滝駅、上白滝駅、白滝駅、旧白滝駅そしてここ下白滝駅です。現在
奥白滝駅は信号場に変わり旅客の乗り降りはなくなりました。
下白滝駅に降り立つと目の前にズラリと並んだ牛小屋が目に飛び込んできます。夜は近くを走る道路の走行音が聞こえるだけで、物寂しさを感じます。
三笠駅(旧 幌内線) Y.K.  
スイッチバックの幌内線。手動のターンテーブル。
線路に耳を付けて近づくSLに大興奮したあの頃が懐かしいから。
ということでよろしくお願いいたします。
ちなみに、この写真には線路沿いに私の祖父母の家が写っています♪

三笠駅航空写真

 
室蘭駅(室蘭本線) N.K.  
登別に住んでいた子供の頃、良く室蘭駅に行っておりました。
昔になりますが木造の微妙に洋風って感じの駅で、趣がありました。
増毛駅(留萌本線) T.T.  
車止めが終着駅ならではの情緒を醸し出しています。
映画「駅(ステーション)」のロケ地としても有名です。かつて陸の孤島と言われた雄冬まではここ増毛からの連絡船が唯一の交通手段でした。映画の中でも登場します。
冬期間は連絡船の欠航も多く、映画の中でもこの欠航がきっかけで高倉健が倍賞智恵子の居酒屋で年を越すシーンは今でも記憶に残っています。
銀山駅(函館本線) M.S.  
そもそも、温泉マン・林克弘さんや写真家・上原稔さんと出会うまでは鉄道には興味がなかったものの、二人がFacebookなどで鉄道の話題に触れたりしているうちに、ボヤ〜っとではありますが自分もなんとなく鉄道や駅を意識するようになり、そうしているうちに、網走を拠点に鉄道で地域活性化を目指すMOTレール倶楽部の方々とご縁をいただき、いつのまにか、旅先で駅に立ち寄ったり、趣味の映画鑑賞においても、鉄道や駅を気にするようなっている次第です。 心に残る駅ということで、銀山駅と書いてはいるものの、実は行ったことがありません。しかし、銀山駅は自分にとって人生の在り方を教えてくれる駅であることは間違いありません。自分の心に残る銀山駅は、映画「男はつらいよ」の5作目にあたる望郷篇に登場します。義理と人情を大事にする寅さんは、かつてお世話になった正吉親分が危篤となり、親分の恩に報いるべく、機関士として働く正吉親分の息子に会いに行くのですが、ここでの親子の確執のエピソードのシーンで登場する銀山駅は、単に駅舎という枠組みをこえ、義理と人情だけでは割り切ることの出来ない、複雑で切ない心情と同化したワンシーンと言っても過言ではありません。銀山駅を通過するD51、呆気にとられる寅さんと登、寡黙に釜炊きをする澄雄、そして、その人間模様の悲しさを醸し出す銀山駅・・・時間にして1分くらいかと思いますが、脳裏に焼き付いています。

 映画での親子の確執のエピソードは悲しい結末となりますが、人間として生きていく上で大切なことも伝えているように伺われます。人間誰しもが死を迎えますが、死に様は生き様の賜であり、自らの生き様が正義と情熱のもとに邁進して行きたいと、この映画の銀山駅での切ないワンシーンを観るたびに感じます。

小樽駅(函館本線) J.U.  
秘境駅ではないのですが、私の思い出の駅は小樽駅でしょうか。
小学校1年生(91年)の頃、小樽に住む祖父の見舞いのため、母に連れられて何度か小樽へ通いました。当時はまだ50系客車が残っており、小樽駅の留置線に ダークレッドの車体が並んでいました。「何処へ行く汽車?」と母に尋ねると「根室」と答えがあり、当時そのような列車は無かったと思いますが、学生時代に 汽車旅をよくしていた母は、客車=「からまつ」などの長距離普通列車を連想したのかもしれません。いずれにせよ、根室という地名がまるで異国のように聞こえたのを憶えています。やがて祖父が亡くなったとの知らせを受け、父と母と小樽へ駆けつけました。夏の天気の悪い夜で、銭函を過ぎると 真っ黒な海が車窓に迫ってきました。張碓トンネルの列車接近警報の音が近づいては消えてゆき、不安を掻き立てました。やがて列車は小樽駅の0番ホームに到 着しました。不気味に輝く蛍光灯に照らされた「ゼロ」の数字が、幼心にとても怖かったのを憶えています。そんな諸々の演出や出来事が重なり、当時の僕にとっての「小樽駅」は、まるで銀河鉄道の終着駅のような異世界を感じました。恐ろしいだとか嫌だというわけでもなく、好奇心を煽られるような異世界でした。もちろん、今は小樽の街も小樽駅も大好きな場所ですが、子供の頃に抱いたあの感情は今も忘れません。
一の沢停留所(旧 定山渓鉄道) T.K.  
57年前に父の仕事(営林署)の関係で百松に住んでいましたので、
幼稚園・小学校へ通うために「一の沢」から「定山渓」まで毎日乗っていました。夏休みと冬休みに一度づつ札幌へ出るのも、買い物も「一の沢」から始まっています。 車掌室に入り、足で踏む発車の警笛をやらせてくれたり、おおらかなものでした。

もの心のついた時からの思い出のたくさん詰まった駅で、自分の人生の始まりの駅です。

 
北舟岡駅(室蘭本線) K.U.  
北海道の伊達市舟岡町にある駅。室蘭本線は東室蘭駅以西は電化されていないので写真を撮るには好都合で数多くの鉄道写真が気軽に撮れる大好きなエリアのひとつ。この北舟岡駅に行く為には国道から海岸の方へと坂道を下りながら駅の方へ進むのですが、ステキなのは列車の背景が全部海になるとても良い眺めな事です。
北海道では中々見れない良いポイントだなぁといつも思う場所。どことなく映画のワンシーンの用な絵が撮れる所なんです。
この日は夕方の駅のホームで写真を撮っていると帰宅途中の学生が沢山乗ってる列車に出会えました。北舟岡では沢山の学生さんが列車を利用してるんですね。出発の時刻になりエンジンの音が鳴り響くと同時に学生さんは列車の中から私の方を見てみんなで手を振ってくれニッコリ笑顔。この北舟岡駅は毎回ドラマがあるのでステキな駅で思い出が沢山あります。

北浜駅(釧網本線) めっしー  
乗り鉄でもないし、最近鉄分に目覚めたので・・なにぶん。
ただ、心に残る駅は「北浜駅」です。
道の駅スタンプラリーをしていた時に寄った駅なのですけど。
実はこの駅あたしの大好きなファミコンゲームの舞台に出てくるのです。札幌から近かったらそう感動もしなかったのかもしれませんが、初めてプレイしてから十数年。北浜駅に立ちオホーツク海の近さに感動しました。ちなみに、ゲームでは北浜駅の海岸で死体が発見されるのですけど。
比羅夫駅(函館本線) A.W.  
http://burasatoru.cocolog-nifty.com/blog/ ※ブログ『ブラサトル』
紅葉(もみぢ)の如き赤心を 櫻の如く香らせて
阿倍比羅夫の忠勇を 紀念に殘す比羅夫驛

 これは、明治39(1906)年に作られた『北海道唱歌(鉄道唱歌第6集)〜南の巻〜/大和田建樹』の第13番の歌詞です。この『鉄道唱歌』は、ご存知の「汽笛一聲新橋を」から始まる全6集374番という長い長い歌。それでもすべての駅名が歌い込まれているわけではなく、途中駅を大胆に飛ばしたりしています。そんな中で、堂々と1番が割り振られているのが函館本線(山線)の比羅夫駅。

 日本書紀に、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明天皇5年(659年)に蝦夷地に渡り、「後方羊蹄(しりべし)」という場所を支配したという記述があります。この「後方羊蹄」をこの辺りだろうと推定し、後志国が置かれたことを記念して、明治37(1904)年にこの駅が設置されたといいます。

 しかし、そんな壮大な由来とは裏腹に、倶知安とニセコに挟まれたこの駅周辺には、何もありません。その俗世を離れた「寂しさ」に癒されるために、僕は青春18きっぷシーズンが来るたびに、この駅を訪れています。ひらふスキー場の最寄り駅だと勘違いして降りてしまう客が後を絶たないようで、「間違って降りてしまった方へ」という貼り紙さえあります。一度降りてしまうと、列車が来るのは数時間後。タクシーを呼んでもいつ来るかわからないという悲劇に見舞われます。僕は何冊か本を持って行くことにしています。

 そんな比羅夫駅は、駅舎が民宿になっています。宿泊すると、ホームでバーベキューを楽しめるのも魅力。到着する列車の乗客たちの驚きの表情が、またたまらないのです。

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